通変星(十神)のすべての言葉を、それが何か・あなたにとって何を意味するかの二文と、よくある誤解の一文で説明する。
十神は十個の星ではなく、日主と盤上のそれぞれの字とのあいだにある十種類の関係だ。算出はとても機械的で、日主の五行を相手の五行と比べ(相手が自分を生む/自分が相手を生む/相手が自分を剋す/自分が相手を剋す/自分と同じ)、さらに陰陽が同じかどうかを見る。五つの関係がそれぞれ陰陽に分かれて、十になる。だから十神が語っているのは「何があるか」ではなく、あなたとそれがどんな関係にあるかだ。
比肩は自分と同じ五行で、陰陽も同じ。あなたとまったく同じ種類のものだ。そのイメージは肩を並べる人で、兄弟、同僚、同業者にあたる。同類のよいところは説明しなくてもわかり合えることで、その代わりあなたたちが欲しいものは同じだ。
だから比肩がもたらすものはいつも二面的だ。負担を分け合う人が一人増え、取り分を分け合う人も一人増える。伝統では、身弱なら比肩を喜び、身強なら比肩を嫌うという。これは神秘ではなく資源の話だ。足りないときは助けてくれる人がいて、足りているときは奪い合う人がいる。
劫財は自分と同じ五行だが、陰陽が逆だ。比肩との違いは微妙で、しかも決定的だ。比肩が「あなたと同じ人」なら、劫財は「あなたを補い合う人」だ。補い合うというのは、相手の欲しいものがあなたの欲しいものとちょうど交換できるということで、ちょうど奪い合えるということでもある。
伝統が劫財を比肩より手ごわく語るのは、陰陽が異なるもの同士のあいだでは作用する力がより強いからだ。異なるものは引き合い、そして争い合う。組めば効率はより高く、ぶつかれば収拾はより難しい。共同経営のもめごとの多くは、この格に落ちる。
実際の読み方としては、これを強度の高い関係ととらえることだ。劫財が強い人の周りには、人も出来事も絶えない。対処の仕方は避けることではなく、線引きを先に書いておくことだ。関係が密になるほど、書面が必要になる。
食神は自分が生むもので、陰陽も同じ。あなたから育つもので、しかもあなたと同じ調子を持つものだ。そのイメージは「食べもの」で、語っているのはあなたが育てたものが、今度はあなたを養うということだ。作品、技芸、子ども、評判。
この格は、十神の中で伝統的な評価がほぼ一方的に良い数少ないものの一つだ。その理由は、幸運をもたらすからではなく、あなたのエネルギーに出口があることを表しているからだ。日主のエネルギーが外へ向かい、目に見えるものになる。そのこと自体が人を安定させる。出力のない人は、エネルギーが内側へ向き、自分を消耗させていく。
実際の使い方はとても単純だ。食神が強い時期は、話し合って何かを生むより、実際に作り上げるほうに価値がある。伝統では食神は「寿をつかさどる」という。平たく言えば、何かを生み出している人のほうが、調子がいいということだ。
傷官は自分が生むもので、陰陽が逆だ。食神と同じく出力だが、違いは強さと向きにある。食神は自分の調子に沿って伸び、傷官は既存の枠組みに逆らって伸びる。だから食神が生んだものは受け入れられやすく、傷官が生んだものはまず拒まれ、あとから認められやすい。
この名前の由来は「官を傷つける」ことにある。傷つけるのは正官、つまり規範と体制だ。これがその二面性を説明している。制度にとっては厄介ものだが、進歩にとっては原動力になる。歴史上の変化の多くは、今のルールを受け入れない人によって押し進められてきた。
実際の読み方としては、これを才能に摩擦がついたものととらえることだ。傷官が強い人はたいてい能力が高く、そしてたいてい服従が求められる環境ではうまくいかない。伝統の助言は昔から「傷官には吐き出し口が要る」というものだ。堂々と反抗できる舞台を与えるほうが、抑え込むよりずっと役に立つ。
偏財は自分が剋すもので、陰陽が逆だ。十神の理屈では、あなたが制御できるものが、あなたの財だ。だから財星が語るのはお金だけではなく、あなたが動かせる資源のことだ。
偏財の「偏」は裏道という意味ではなく、固定されていないという意味だ。そのイメージは流れる財で、商売、投資、人付き合いのやりとり、チャンスによる財だ。正財との違いは収入源の安定性にあって、正当性にあるのではない。伝統では偏財を父親や社交の手腕とも結びつけている。どちらも「関係の網の中で資源をやりくりする」力に頼るものだからだ。
実際の読み方としては、これをチャンスをつかむ力ととらえることだ。偏財が強い人はたいていチャンスを見つけるのがうまいが、その代わり守るのが得意ではない。速く来るものは、たいてい大事にされにくい。だからこの格に最も必要なのは、蓄えを残す仕組みと組み合わせることだ。
正財は自分が剋すもので、陰陽も同じ。偏財との違いは安定性だ。偏財は流れていくチャンス型のお金で、正財は固定された見通しの立つお金だ。給料、家賃収入、長く付き合う顧客。
十神の理屈では、陰陽が同じだと作用する力は比較的穏やかになる。異なるもの同士のように強く引っぱり合うのではなく、持続的に、ゆっくりと、長く保てる。これこそが「正」の意味だ。道徳的に正しいということではなく、構造としてより安定しているということだ。
伝統では正財を妻や実直さとも結びつけている。実際の読み方としては、これを守り固める力ととらえることだ。正財が強い人はたいてい貯められ、勘定が確かで、無駄遣いをしない。その代わり、ときに慎重すぎて、チャンスが見えていても動けないことがある。だから正財に最も必要なのは、思い切ってリスクを取る面と組み合わせることだ。
偏官(七殺)は自分を剋すもので、陰陽が逆だ。自分を剋すものは十神では「官殺」と呼ばれ、あなたを縛る力を表す。規則、上司、責任、外からの要求。偏官(七殺)はその中で激しいほうだ。
陰陽が異なるもの同士の剋は最も強く、だから偏官(七殺)のプレッシャーは穏やかな注意ではなく、追い立てだ。伝統の評価は一度ひっくり返っている。初期には凶とされたが、後の命理学では広く「殺は権となる」と考えられるようになった。偏官(七殺)に十分な日主の強さが組み合わされば、それが気迫と実行力の源になる。違いは星にあるのではなく、あなたが持ちこたえられるかどうかにある。
実際の読み方としては、これを強度のテストととらえることだ。偏官(七殺)が強く日主が弱ければ、押しつぶされながら走ることになる。偏官(七殺)が強く日主も強ければ、使えるプレッシャーがあるということになる。だからこの格で大事なのは、プレッシャーを取り除くことではなく、自分を持ちこたえられるところまで育てることだ。
正官は自分を剋すもので、陰陽も同じ。偏官(七殺)と同じく縛る力に属するが、違いは強さと見通しの立ちやすさにある。偏官(七殺)は激しいプレッシャーで、正官は安定した規範だ。陰陽が同じだと作用は穏やかになるので、正官の縛りは追い立てではなく、枠組みだ。
伝統では正官を十神の中で最も「正しい」格と見なし、名分、地位、責任感、自律を表すとしている。盤の上での働きは、日主のエネルギーを社会に認められる形へと導くことだ。同じ才能でも、正官のある人のほうが制度に受け止められやすい。
実際の読み方としては、これをあなたと秩序の関係ととらえることだ。正官が強い人はルールを重んじ、評判を気にかけ、責任に縛られやすくもある。多すぎれば窮屈になり、少なすぎれば組織に収まりにくい。この格の理想は多いことではなく、あなたをちょうどよく受け止められることだ。
偏印は自分を生むもので、陰陽が逆だ。自分を生むものは十神では「印」と呼ばれ、養うことと吸収することを表す。学び、資源、母親、後ろ盾、あなたを回復させてくれるもの。偏印はその中で型破りなほうだ。
陰陽が異なるもの同士の生は力が強いが安定しないので、偏印の養いは不規則にやってくる。毎日飲む水ではなく、たまに出会う一冊の本、一人の人、ひとりの時間だ。伝統では偏印を宗教、技術、傍流の学問と結びつけている。こうした分野の知識は、もともと主流のルートからは来ないからだ。
実際の読み方としては、これをあなただけの補給路ととらえることだ。偏印が強い人は、普通のやり方ではなかなか身につかないが、自分で掘り下げるとかえって速い。そのリスクは伝統で言う「梟印奪食(倒食)」だ。偏印が重すぎると食神を押さえ込んでしまう。つまり考えすぎて、何も形にできなくなる。この格に最も必要なのは、無理にでも出力することと組み合わせることだ。
印綬は自分を生むもので、陰陽も同じ。偏印と同じく養いに属するが、違いは規則性にある。偏印は不定期で主流から外れた補給で、印綬は安定した見通しの立つ補給だ。正規の教育、母親、長く続く後ろ盾、頼れる制度。
陰陽が同じもの同士の生は穏やかで持続的なので、印綬の働きは土台のようなものだ。あなたを前へ押し出すのではなく、崩れないようにする。伝統では印綬を母親、学歴、名誉、そして「守ること」と結びつけている。これらに共通するのは、あなたにまだ力がないうちに支えてくれることだ。
実際の読み方では、一つの反転に注意が要る。印はよいものだが、印が重く身弱だと、かえって問題になる。長く守られすぎた人は、力が育つ機会を持てない。だからこの格の理想もまた、多いことではなく、必要なときにはあり、自立すべきときには手を離すことだ。
言葉は入り口にすぎない。あなたにとっての意味は、自分の命式の上で初めて見えてくる。